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2012年12月30日以来の記事です。

世紀末的所産ともいうべき平安時代後期(12世紀初)の「今昔物語」や鎌倉初期(13世紀初)の「宇治拾遺(しゅうい)物語」等の奇を好む説話文学となると、平中はもともとマンガチックな名物男だったので、戯画化された面白おかしい好色男として登場している。
 平中は、あまり好きでない女の家で泣くという演技をするために、いつも水を入れた硯の水差しを持っていた。ある日平中の妻が水差しをたまたま見つけたので、いたずらに水差しに濃くすった墨汁を入れた。いつものように夕方に出かけて明け方に帰ってきた平中が、明るくなってから目の縁が真っ黒でおかしい顔になっていた。これは、平安後期の「古本説話集」に見える話で、これが狂言「墨塗」の原話である。また、「今昔物語」巻30の平中説話は秀逸だ。
 ここでも平中は徹底的に翻弄されている。まさに悲喜劇的な振られ男として、存分に戯画化されている。もうここには人間的な交流、喜怒哀楽はない。これは色好みの名にかけた勝負、恋とは名ばかりのゲームである。平安後期の説話で、平中がこのように扱われるに至ったのは、もともと彼の道化た一面があったからではあるが、やはり人間性を喪失しつつあった末期の退廃的視点というべきだろう。
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昨年9月11日の記事の続きです。1年3カ月以上空いてしまいました。

 平中が気のきいた恋歌のやりとりをした挙句、深い仲になった女がいた。差し支えがあって4、5日ご無沙汰したので逢いたくなって、月の美しい夜、馬で女の家を訪れ、庭を覗くと植込みの繁みの中に女房たちが4、5人たたずんでいた。近づくと女たちはざわざわと縁側に上がってしまった。仕方なく平中が茂みの中にじっとしていると、女房が一人やってきた。自分を迎えに来たのだろうと待っていると、女はススキの生い茂った所へ行ってしばらく帰ってこない。不審に思って忍び寄ってみると、なんと坊主が一人隠れていたので、さては別口があったのだと分かった。自分より先口か後口かわからないが、ここで騒ぎたててこんな浮気な女につまみ食いされていたと噂が立つのは嫌だと自分のことは棚に上げて怒って

 穂にでても風にさはぐか花薄(すすき)いづれのかたになびきはてむと
 <人目につくほど穂が伸びたお宅の花ススキは、一体どちらになびこうとしてい風に騒いでいるのですか?>

と皮肉な歌を一首残して、返歌も待たず立ち去り、それきり便りもしなくなった。

 和泉式部の発展ぶりを引き合いに出すまでもなく、一夫多妻は一妻多夫でもあったのだから、平中の愛人が間男したというわけではない。平中は一人息子で両親が溺愛したというお人好しの過保護息子だったので、上流の世間知らずの姫君と違って、あけすけで下情に通じた宮仕えの女房族にとっては与しやすい相手だったのである。
当人がプレイボーイぶっているだけに、女たちにいなされたりすかされたりしているところが、ユーモラスで漫画チックである。
 『伊勢物語』のモデルの業平にしろ、『源氏物語』の光源氏にしろ、『かげろふ日記』の関白兼家にしろ、『和泉式部日記』の兄弟の親王にしろ、これまで見てきた色好みの英雄達は、いずれもハイソサイエティの一員であった。だが、ここで取り上げる『伊勢物語』の亜流の歌物語である『平中物語』(39段)の主人公は、珍しくも中流のプレイボーイで、今までの作品では全然わからなかったこのクラスの性愛の生態が、リアルに描かれていて興味深い。

 平中というのは字(あざな。学者・文人の別名)で、本名は平貞文(たいらのさだふみ)といい、平姓を与えられた桓武天皇四世の孫の右大将平好風(たいらのよしかぜ)の一人息子というのだから家柄は悪くない。だが『古今和歌集』(905年)成立後18年目に50歳ほどで没したとき、やっと従五位上というのだから中級の官吏であった。つまり牛車を乗り回す身分ではないので、女の家に馬で移動すると言う機動力を発揮している。

 中級官吏の彼が説話文学にたびたび登場するのは、彼がひとかどの歌人であり、桁外れの色好みであったからである。彼の壮年期に編集された『古今和歌集』に九首掲載されていることで評価されていたことがわかるが、色好みとしては既に『源氏物語』にも「平中がように色どり添へたまふな」(末摘花)とか、「平中が真似ならねど、まことに涙もろになむ」(若菜)など、平中で気安く呼ばれた名物男であった。そのあげく平安末期の『今昔物語』では、
  今は昔、兵衛の佐平の定文と云ふ人有りけり。字をば平中となむ云ひける。品も賎しからず、顔形も姿も美しかりけり。気配も話しぶりもをかしかりければ、その頃、この平中に勝れたる者世に無かりけり。かかる者なれば、人の妻、娘はもとより、宮仕え人は、この平中に物云はれぬは無くぞありける。

 業平に続く実在の色好みとして、平中は早くも伝説化されている。
 だが平中の恋の相手は中流の受領の娘や、同じ出身の宮仕えしている女房たちである。
 さて、『平中物語』は主人公を理想像として美化したり、物語としての伝奇的要素を取り入れようとしていない。極めてリアルで卑近で日常的で、当時の中流貴族社会の男女関係が、あけすけにリアルに書かれているので、限りなくノンフィクションに近い。だから常に恋の勝利者として描かれている業平や光源氏と違い、『平中物語』には39段のうちに振られた話が13段もある。第2段はそのひとつ。

 いくら恋歌を贈っても返事をよこさない女がいた。たまりかねた平中が、返歌はともかくただ見たとだけでも返事して欲しいと言ってやると、女は「見た」とだけ書いてよこした。それでも懲りずに恋歌を贈っているうちに秋になった。平中の家では盆栽の菊が盛りだと聞いた女が、「一枝欲しい」と言ってきたので、使いの女にわけを聞くと、「ある殿方からいただいたお歌の返事を、この菊の一枝にお付けなさりたいのだそうです。」ということであった。そこで平中がひどく恨み言を言うので、「お目にかかって、とっくりとお話し致しましょう。月の良い頃にどうぞ」と言ってきた。平中が勇んで女の家を訪れると縁側に招きいれ、女は姉妹とともに簾のもとにやってきて、にぎやかに気取って話しかけるのであった。
 徹底的に女にコケにされ、手玉に取られた上に、姉妹同座のデートでとどめを刺されるという、まことにどじな平中がここにいる。往々にして平中がこんな目にあうのも、手当たり次第に言い寄るくせに無責任な彼の行動を、女たちが先刻承知しているからである。
「かげろふの物はかなげに飛びちがふ」というようにはかない生涯であったと、自分の愛欲の半生を自由日記のスタイルで書き綴った『蜻蛉日記』の筆者は、当時の貴族女性がそうだったように本名が伝えられず、「道綱の母」である。紫式部や清少納言などは、宮仕えしたときの職名、つまりペンネームである。この道綱の母のように、摂政太政大臣で関白になった藤原兼家(990年没)の第2夫人となり、終生訪れを待つだけの通い妻として家庭に在り、後に右大将道綱の母となった女性の本名は伝えられていない。

 彼女の妹は菅原孝標の妻で、周知の『更級日記』の作者の母である。何よりも彼女は本朝三美人の一人と言われ、きわめ付きの和歌の名手と『大鏡』が伝えているとおり、勅撰集に36首が入っている。この眉目美しく才たけた当時18、9歳の娘にプロポーズして結婚したのが藤原北家嫡流の関白兼家(当時26歳)で、それから21年間、ほかに10人近い通い妻を持った兼家との愛の葛藤を綿々と回想風に書き綴ったのが、上中下三巻の『かげろふの日記』である。

 兼家が彼女にプロポーズしたのは954年の夏で秋には結婚した。
 彼女は、絶世の美貌と歌才に恵まれた自分を通い妻とした以上、私のほかには目もくれないはずだと思い込んでいたようだ。翌年、彼女が道綱を産んだ後、夫が他の女性にあてた恋文を見つけた。出産のためにセックスレスになったときに浮気されたのである。
 夫が夜明け前に来ると、会いたくないので開門しなかった。夫は、その浮気相手の家の方へ向かっていった。黙っているのも業腹だと思って、

 嘆きつつひとり寝る夜の明くるまは いかに久しきものかとは知る

と詠んで、しおれた菊に挿して届けさせた。百人一首で知られたこの歌は、ただの閨怨の歌ではなく、嫉妬の炎で眠るどころではなかったのである。

 翌々957年の夏、浮気相手女性の出産が近づくと、兼家はにぎやかに車を連ね、彼女の家の門前を素通りして産所へ向かっただけではなく、7月には彼女への贈り物の衣装の仕立てを頼んできた。彼女が突っ返すと兼家も怒って、20日余りも来なかった。

 まったく兼家の仕打ちは、嫉妬に目のくらんだ彼女の神経を逆なでしているとしか思えないが、一夫一婦制の現代の観点であり、高級貴族の兼家にとっては伝統の一夫多妻制を守っているに過ぎない。兼家は第一夫人の時姫にも会わず浮気相手に入り浸っているというので、時姫と道綱母は、歌をやり取りして互いに嘆きあい慰めあったそうだ。

 こうしていつしか35歳くらいになると「いとさだ過ぎ、古るぶるしき人」となる。夫がたまに訪れると、義理で来たことは知っているから素直に迎え入れられず、いけないとは知りながらも底意地の悪いことをまくしたててしまう。兼家は光源氏のようなデリカシーの持ち主ではないから、逢っても気詰まりな時姫や道綱母を敬遠し、若くてかわいくて従順な女を物色することになる。

 ついには、山寺に20日余りも篭城してしまう。

 妻の座に絶望した筆者は、母として生きようとし、養女を得るが、道綱や養女が結婚する頃になると浮き上がってしまい、孤独な脇役になってしまう。

 この日記は、兼家が床離れしてまったく訪れなくなった974年、結婚以来21年目の大晦日で終わっている。その後も20年ほど生きて60歳前後でなくなった。
 「雨夜の品定め」でわかるように、光源氏の愛人たちはおぞましい上流よりも中流女性が多い。
第三帖「空蝉(うつせみ)」、第四帖「夕顔」は、プレイボーイ推薦の中流女性の典型である。

 空蝉は国司 伊予守の若い後妻。17歳の光源氏が久しぶりに左大臣の本妻 葵の上を訪ねようとしたが方角が悪いので行き先を変えたところ、途中で空蝉と出会った。空蝉と源氏は寝たが、空蝉は身分の低い国司の妻であることや年上であることをかえりみて、この交情をひどく不相応だと重い、二度と源氏に会おうとしなかった。

 夕顔は、故皇太子妃で源氏より7歳年上の六条御息所のもとへしのぶ途中で拾った恋である。夕顔はナイーブでなよなよとして、子どものようでいじらしく、源氏はすっかりのめりこんでしまった。
 その後、御息所の生霊にとりつかれて死んでしまった。源氏は、声を惜しまずいつまでも泣き続けた。行きずりの恋であっても全力投球するのだから、浮気者と承知の上で、女性は愛さずにはいられないのだろうか。

 これら二人の中流女性の話は、紫式部が書いたフィクションである。ノンフィクションではどのように描かれているのであろうか。
 御息所(みやすんどころ。皇太子妃)は源氏より7歳年上の未亡人。荘園はたっぷりあるし、美人で地位も気位も高く、仮名書きでは当代随一の定評があった。若き日の源氏は、御息所の筆跡に魅せられて言い寄り、渋る彼女を口説き落として以来の付き合いであった。一度そうなると年増の深情で、若い源氏を熱愛しはじめたくせに、あまりに権高で逢っても気詰まりなので、源氏の足は次第に遠のいた。それでもたまに源氏がつまみ食いした夕顔を、生霊(いきすだま)となって取り殺した御息所は、次に源氏の正妻で産み月の近い葵の上に憑りついた。調伏をしたおかげで男児 夕霧を産んだが、その後も憑りつき、ついに葵の上を殺してしまった。
 当時は、怨霊があると人々は信じていて、鳴弦や加持祈祷などをして物の怪を除き払っていた。鎌倉、室町時代でもそうである。なので、当時の人々にとっては、非常に現実的な読み物だったろう。

 憑りつく話については、非常にリアルに書いてあるのだが、ここでは省略している。
 中流女性が面白いといっても、皇族である源氏にふさわしい身近な女性は、もちろん上流女性である。皇統につながる家柄、摂関家、左大臣、右大臣らの一門を独占している藤原北家の女性が対象である。藤原北家が権力を握ったのは、娘を皇后や女御、更衣などにして天皇の寝所にはべらせたからである。彼女らは幼少時から選りすぐられ、皇后等になるのにふさわしく教育された。

 こうなると、気位が高く、雅といった美意識や教養が多いので、恋愛してもすなおに甘えたり焼餅を焼いたりよがったりできない。だから男のほうはその美貌や教養に魅せられていても、逢う夜はいつも盛り上らないので、「夜離(よがれ)」といって足も遠のき、気のおけない中流女性をつまみ食いすることになる。

 そんな噂が聞こえてくると上流女性は気位がゆるさないから、嫉妬は表面化しないで内攻する。その潜在意識が生霊(いきすだま)となって現れ、後でわかったことだが恋敵の中流の「夕顔」を取り殺したのは上流の六条の御息所(みやすんどころ)であった。

 清少納言は、「いくら一夫多妻がしきたりだからといって、愛されるのならば一番でなければいやだ。さもなければ憎まれてひどい仕打ちをされたほうがましだ。二番目、三番目の間に合わせの通い妻というのだったら死んだほうがましだ」と当時の貴族女性が言いたくてもいえなかったことをすばり言っている。「すべて人には一に思はれずば、さらに何にかはせむ。唯いみじう憎まれ、あしうせられてあらむ。二三にては死ぬどもあらじ。一にてあらむ。」